僕にとっては,自分探しは,かなり早い段階で終わっていた.細かな,なりたい職業は,育つ過程で,変わったりしたが,核の部分の「ものつくり」は,今の昔も変わっていない.それよりも,なりたい自分目指して,足掻いてると言った方が正しい.
前の壁をどうしたら砕けるだろうか?思いもよらない別の道はないだろうか?それを探してる.
そんな,自分にとって,
程々に自分と、そして周囲と、日々折り合いをつけていく以上に、人生の本質的な何かってあるのだろうか。
は,何かが引っかかる.
自分を決めない若者だからこそ企業が簡単に使い捨てることができ、扇動に流されて消費してくれる都合のよい存在な訳であって、人生で豊富であるかにみえる束の間の選択肢だの希望だのって、意外と人々を自由の檻に閉じ込めているのではないか。あの常に期待を先送りすることで人々を宙ぶらりんにして決めさせない構造って、岩井克人が描く不換貨幣に於ける一般的受容性の先送り構造と似ていないだろうか。
この部分が,僕には,さっぱりである.使い捨てされることをいいことと言ってるのだろうか?それとも,別の何かを言いたかったのだろうか?わからなかった.
だから,この人の言うことを,批評すべきではないのだが,冒頭の,
しかも周りが決めることを強いる訳じゃないし。
という言葉には僕が感じていることとは,異なる.
僕は,「周りが決め「ない」ことを強いてる」ように思える.それこそ,「使い捨てできる」人間を増やすために.しかも,これを強いていることに気がつかないように巧妙に.
だから,僕は,
程々に自分と、そして周囲と、日々折り合いをつけていく以上に、人生の本質的な何かってあるのだろうか。
という言葉に,なにか,危険を感じる.少なくとも,自分の「核」の部分は,見定めた方がいい.戻るべきところが,わかっているなら,いくらでも,探せばいいし,探せるのだと思う.
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